sabato, il 30 aprile 2010
sono le sedici e otto
コルトーナは、アレッツォから南へ電車で20分、トラメジーノ湖の少し北に位置する小都市です。アレッツォからの距離が近いこともあり、2つの都市をセットで観光されることが多いようです。他のトスカーナやウンブリアの都市と同じく高い丘の上に築かれており、以前に訪れたアッシジが思い出されました。ちなみにコルトーナの最寄り駅は、カムーチャ(Camucia)という名称のため、知らないとちょっと戸惑うかも。駅中にも駅前にもバールやトラットリアの陰すら見えず、なんとも長閑な雰囲気が漂っていました。

その都市としての出自は、はるか文献の域を超えて考古学の扱う時代に遡ります。そのためルネサンス期には、その由来を
旧約聖書における箱舟で知られるノアにまで遡る神話が創作されています。曰く、神の起こした洪水を箱舟で生き長らえたノアは、偶然訪れたキアーナ渓谷を気に入り、そこで30年を過ごす。そしてノアの息子の一人であるクラーノが付近にあった丘を訪れ、そこにコルトーナの基礎を築いたというもの。
実際のところは、考古学的な調査によると、この地を初めに支配下に置いたのは
ウンブリ族であることが分かっています。1989年に行われた発掘調査でも前8世紀に遡る遺物が発見されており、かなり早い段階からウンブリ族の拠点となっていたことが伺われます。そしてウンブリ族の後を引き継いだのが、ローマ以前にイタリアに大勢力を打ち立てた
エトルリア人。この地に18世紀から続くエトルリア・アカデミーが存在することからも分かるように、エトルリアとの深い関係は、現在のコルトーナの姿にも大きく影響を与えているようです。
エトルリア人とその国家・文化については、イタリア各地にその痕跡を残しているにも関わらず、あまり良く分かっていない点が多いため
「謎の民族」という呼び名で通っています。しかしギリシア地方、中近東地域、そしてイタリア半島を含む地中海世界の歴史を把握するには、エトルリアへの理解は避けて通れない道。以下少し長くなりますが、3つの設問を通じてその存在を確認してみましょう。
【設問1】エトルリア民族の起源とは? なんと言ってもエトルリアを語るに当たって最も大きな議論とは、
「民族の起源」にあります。それは、前5世紀にかのヘロドトスが一つの仮説を提示して以来、2千年を優に超える時代の中で消えることの無い課題でした。そしてエトルリア民族の出自を「謎」たらしめているポイントは、
「文化の特異性」と
「言語」の2つに集約されます。この2点が周辺民族と比べて非常に際立った特徴を示していたことが、その後の議論を牽引しているのです。
まず「文化の特異性」と言った場合にそれが示すのは、
土木や治水に代表される工学分野の技術力の高さ。ローマの繁栄を支えた石畳の街道も上下水道も、エトルリア人がもたらしたものを模倣することで成り立っているのです。これまでヨーロッパで知られていなかったこれらの技術を、どうやってエトルリア民族が知りえたのか、もしくは発明できたのかが1つ目の謎。
また「言語」については、彼らの言語が
インド・ヨーロッパ語族以前の特異な文法構造であり、発見されている文のほとんどが未解読のままとなっています。他の言語との共通性についても、例外的にごく限られた範囲でレムノス島とイタリア北部ラエティとの関連が指摘されているのみで、まったくもって孤立した言語体系とのこと。そのことが彼らの文化を学ぶ妨げとなり、謎を深めていると言えます。

エトルリアのアルファベットが刻まれた青銅板
それでは、そのような「謎」がある中でエトルリアの起源に関してどのような説があるかと言えば、以下の5つのものが提示されています。
.リシアの歴史家ヘロドトスによる中近東由来説(リュディア人:現トルコ)
▲リシアの歴史家レスボスによるギリシア由来説(ペラスゴイ人:源ギリシア人)
ハルカリナッソスの歴史家ディオニュシオスによる土着民説
ぅ侫薀鵐垢粒惻團縫灰蕁Ε侫譽譴砲茲イタリア北部由来説(ラエティ人)
ゥぅ織螢△粒惻團泪奪轡癲Ε僖蹈奪謄ーノによる民族形成説
そして現時点では、大よそ次のような点でヌ餌卸狙説にて暫定的な合意を得ているようです。これは、土着民説を拡張したもので、在来の民族を中心として他の民族との文化的交流や移民の受入を通して、結果として「エトルリア民族」としての特徴を持つ集団が形成されたというもの。基本的には、葬礼儀礼および都市形成の発展期からして、土着のヴィッラノーヴァ文化との連続性が指摘されています。そして高度な技術の定着や土器文化の興隆に見られるように、中近東およびギリシアとの継続的な人口の受入があったと想像されます。すなわち、単一民族を想定とした「起源」の議論という問題提起自体に、誤りがあったということ。
過去の他の説には、政治や民族主義的な観点が入っていることが伺え、それに対して「民族形成説」は、なかなか現実的で説得力のある結論と感じられます。とはいえ、他の民族からの移住など明確な証拠が示されていない点も多々有り、今後の研究による裏付けが必須ですね。
【設問2】エトルリアとローマの関係とは?
イタリア半島においてローマに先立ち覇権を握っていたにも関わらず、そのローマに征服・吸収されてしまったエトルリア。その征服・吸収の背景、そして支配権を得たローマに与えた影響を見ていくことで、エトルリアの特徴が見えてきます。
まずは、やはり政治面での関係性から。前753年からロムルスに始まる王政時代のローマにおいて、5代から最後の7代に至る3人の王は、すべてエトルリア人と伝えられています。ちなみにローマの王政期については、明文化された記録は無く伝説との説もあります。そして実際の考古学的調査によれば、前625年までローマの地に都市と呼べるものはなく、原住のラテン人の集落のみがあったとのこと。実際の都市の建設は、タルクイニアから訪れてこの地を統治したエトルリア人、すなわちローマ史でいうところの5代王タルクィニウス・プリスクスによるものとされています。タルクィニウス・プリスクスは、エトルリアの強大な都市国家タルクィニアの王の息子で、エトルリアの領土拡張政策に合わせて前575年にローマに都市を建設しています。言い換えるとローマの建国は、実際にはエトルリア人によって成されたということも言えるのではないでしょうか。

タルクィニウス・プリスクス
次に、ローマがいかにエトルリアの築いたインフラを活用したかという観点。そこには、街道などの物理的なインフラに限らず、言語や商業ルートといった形状を持たないインフラも含まれます。最盛期のエトルリアの領土は、北はポー川流域、南はカンパニア地方に及んでいます。また航海技術に長けていた彼らの交易ルートは、ギリシア、中近東、北アフリカ、そしてスペインにまで及んでいました。また領土拡大および交易を通して、文盲であったイタリア半島の各地にアルファベットの文化を広めたことも、非常に重要なポイントでしょう。ローマが短期間にイタリア半島を統一できたのも、エトルリアが確立していたそれらインフラを継承できたからと考えられます。

エトルリアの領土地図
最期に、これが最もエトルリア独自のものとして長命を保った文化ですが、その宗教について。エトルリア人は、まずもって宗教でローマを支配したと言って良いほど、複雑で確立された宗教体系を誇っていた民族でした。彼らの宗教が他の民族のものと異なる大きな要素は、それが書物の形で教典にまとめられていた点にあります。そのため体系的な教義・典礼を一定のレベルで教育することが可能となり、卜占師が一般の職業として成立していました。ラテン語散文の名手として高名なかのキケロも、卜占に関する専門書をものにしており、かなり傾倒していたことが伺われます。キリスト教が台頭してきた折には、ローマの伝統的な宗教としてキリスト教徒と闘争したのも、エトルリアの卜占師達でした。

エトルリア人が使用した臓卜占盤
これら以外にも、政務体制や服飾文化などもローマはエトルリアを範としています。ローマの躍進の裏にエトルリア有り!ですね。
【設問3】エトルリアとルネサンスの関係とは?
ルネサンス期のイタリア半島では、「古代の復興」の掛け声と共にギリシア・ローマ文化の再発見が始まるわけですが、そこには当然のようにローマ文化の基礎となったエトルリア文化も含まれていました。そして当時の人々が、エトルリア文化から何を感じ取ったかは、主に2つの観点から語ることが出来るでしょう。1つ目は、当然の如く芸術作品への影響という観点。2つ目は、政治的なプロパガンダとしての利用という観点があります。
エトルリア美術の独自性は、様式というよりもその日常生活というモチーフ自体にあるように見受けられます。彼らの美術は、主に陶器、ブロンズ像、そして墓所の壁画という形で残されていますが、その日常生活が最も良く分かるのは、墓所の壁画になります。ルネサンス期の画家が、そういった壁画を見て影響を受けたという指摘もされています。一つの事例として、ミケランジェロがタルクイニアのオルクスの墓に描かれたハデスにインスピレーションを受け、狼の毛皮をまとった男の姿をスケッチで残しているとのこと。また同じくミケランジェロが描いた有名な《アダムの創造》は、エトルリアの墓に描かれた横たわる男の像との類似が指摘されています。ただし文献上の証拠がある訳ではなく、あくまで形態上の類似のみのため、ちょっと眉唾的な感もありますが、それでもなお興味深い。

オルクスの墓の壁画(タルクイニア)

雌ライオンの墓(タルクイニア)
16世紀初期になると、フィレンツェのトスカーナ大公コジモ1世(1519-1574)により、エトルリアの存在を政治的プロパガンダとして利用する動きが出て来ます。その利用の仕方は、フィレンツェの発祥をエトルリアに遡るとされる文人達を擁護したり、エトルリアの美術品の収集という形で現わされました。またトスカーナ大公国の「トスカーナ」という語も、エトルリアの別名である「トゥスカ」に由来しています。コジモ1世がその公国としての成立に当たって、あえて「フィレンツェ大公国」ではなく「トスカーナ大公国」(Granducato di Toscana)という名称を選んだことにも、エトルリアへの意識が働いていることが明確に現れています。

コジモ1世のコレクションであった《アレッツォのキメラ》
では、なぜコジモ1世がそれ程までにエトルリアに傾倒していたかと言えば、以下の4つの理由が指摘されています。トスカーナ大公国が成立した時期は、未だにイタリア半島が様々な地域勢力に分割されていた群雄割拠の時代であり、政治的な優位性を常に保つ必要がありました。そしてエトルリアがそのために利用されたことは、当時の人々の認識の中で、エトルリアが過去の偉業そして権威を表すものであったと言っても良いでしょう。
.蹇璽浙宜弔箸慮⇔脇争および政策
▲侫レンツェの領土拡大政策の正当化
フィレンツェ公国としての統合に向けた一体性の強調
ぅ侫Д蕁璽蕕箸陵ダ荼闘争
というのがエトルリアについての概要。そしてコルトーナは、そのような歴史の跡が多く見られるとあってとても興味深い土地でもあります。
ローマ以降のコルトーナは、その重要な立地と肥沃な土地に恵まれ、13世紀にその栄華の頂点を極めます。しかしながら、アレッツォやフィレンツェ、そしてペルージャといった強力な都市国家の抗争に挟まれ、次第にその力を失って行きます。現在もコルトーナに残る有名な建物のほとんどが、13世紀に建てられてものであることも、その歴史を象徴しているようです。
現代のコルトーナは、中世の趣を残すトスカーナの小都市として観光客を惹きつけています。かなり標高も高く、街中から見える周辺の農村地域の景色も素晴らしい。観光地としての遊園地化が進んでしまっていますが、まだまだ素朴なイタリアの田舎の雰囲気も残っていると感じられました。そのようなコルトーナの様子は、こちらからどうぞ。
01. サン・ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)
カムーチャ駅前からバスに乗り、15分程するとコルトーナ市街の入口に当たるガリバルディ広場に到着。その広場から最初に見える建物が、こちらサン・ドメニコ教会。シンプルで簡素な造りのこの教会は、13世紀にドメニコ会士達がこの地に住んでいた場所に建っているといいます。15世紀にナポリのラディズラーオ1世(Ladislao I, 1376-1414)とフィレンツェとの戦争で一度破壊され、その後も幾度もの中断を経ながらも、ドメニコ会士達の努力で再建されたという歴史を持ちます。また当時の併設されていた修道院には、かのフラ・アンジェリコも宿泊しています。

内部は、身廊のみの簡素な構造ですが、おやっと思わせられる素晴らしい美術品が収蔵されています。祭壇にあるのは、ロレンツォ・ディ・ニッコロ(Lorenzo di Niccolo, 1391-1411)のよる《聖母の戴冠》を中心とした多翼祭壇画です。ゴシック様式の厳格さを残しつつ、人物像の優雅さが表現されていますね。作品自体の保存状態も良いです。

また脇に据えられた、ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli, 1445/1450-1523)による《天使と聖人に囲まれた聖母子》のテンペラ画もなかなか良い。上部の明るさと下部の暗さが対比され、中心の聖母子に色彩効果でもって視線を導く描き方に、画家としての高いセンスが感じられます。

主な作品は上記2点ですが、過去にはフラ・アンジェリコやサッセッタ、バルトロメオ・デッラ・ガッタの作品を所有していたことがあるといいます。シンプルな外見に見落としがちなスポットかも知れませんが、美しい作品を身近に感じられる場所でお勧めです。
02. サン・フランチェスコ教会(Chiesa di S. Francesco)
ガリバルディ広場からナツィオナーレ通りを登って行くと、街の中心であるレプッブリカ広場に行き当たります。そこから細い脇道を更に登って行った先に見えてくるのが、こちらのサン・フランチェスコ教会。1244年に、フランチェスコ会の2代目総長である僧侶エリア(Elia Bombarone, c. 1180-1253)が、もともとあった"Bagno della Regina"というローマ時代の浴場跡に建造されたもの。ちなみに僧侶エリアは、高名なアッシジの聖フランチェスコ聖堂の建造を指揮したことでも知られています。

内部は、概観のゴシック様式とは異なるバロック様式で、建造当時の面影はありませんでした。ただ側壁の裏側には、このようなオリジナルのフレスコ画が見えており、当時の豊かな色彩に溢れた空間を偲ばせます。他にも、僧侶エリアがコンスタンチノープルから持ち帰ったとされる聖十字架を収めた幕屋や、拝観は出来ませんがルカ・シニョレッリの墓所もあります。

また2005年には、この教会に納められていた僧侶エリアの遺骨についての調査が行われ、その生前の人相が復元されたそうです。今回訪問した際にも、その研究経緯を記した以下のパンフレットが配られていました。

コルトーナの歴史を紐解く上で、非常に重要なスポットと言って良いでしょう。
03. 聖マルゲリータの墓所(Santuario di Santa Margherita)
サン・フランチェスコ教会の前から、人通りの少ない坂道をひたすら登っていくとぺスカイア広場に出る。その先、サン・クリストフォロ教会を左手に見ながら林の中を進み、更に長い階段を登った先にこの巨大な建築物が姿を現します。当にコルトーナの街を見下ろす立地にあり、また街中の他の教会と比べて非常に立派な建築で、こちらがドゥオーモだと言われた方が納得してしまいます。

聖マルゲリータ(Santa Margherita, 1247-1297)に捧げられているこの教会の原型は、聖バジリオに捧げられた11世紀の小さな教会でした。さらにそれ以前に遡れば、エトルリアの宗教施設ないし軍事施設があったとされています。その聖バジリオ教会は、1258年に破壊されてしまい、聖マルゲリータがアレッツォの司教に誓願したことで再建が着手されます。再建当時の様式は、ジョバンニ・ピサーノの設計によるロンバルディア風でしたが、現在の姿は19世紀の改装によるもの。当時の面影は、ファサードの薔薇窓のみとのこと。しかしながら重厚でどっしりとした重量感と、周囲の山の静かな雰囲気とが相まって非常に存在感がありました。

聖マルゲリータは、1297年にその再建が完了される前に亡くなってしまいますが、死後この教会は聖マルゲリータ自身に捧げられることになりました。現在も内部で、ガラスケースに入った聖マルゲリータの遺体を拝観できます。ちなみに聖マルゲリータの生涯は、若い頃に恋人と駆け落ちし、その後に自身の放蕩を悔いて修道生活に入るというもの。どことなくマグダラのマリアに纏わるストーリーを想像させますね。若く美しい女性が悔い改めて宗教の道に入るという構図は、ヨーロッパ地域で人気がある展開なのでしょうか。多く信仰を集めている理由も、その辺りにあるのかも知れませんね

またこの教会の裏には、大きな修道院が併設されています。教会の裏手に回ると、その修道院が管理する畑が見られました。また若い修道士達の姿も見ることができ、現代でも続く歴史が感じられました。この裏手からガリバルディ広場に繋がるマルゲリータ通りは、下に臨む景色がとても素晴らしいのでお勧めです。

04. エトルリア・アカデミー博物館(Museo dell' Accademia Etrusca)
コルトーナのエトルリア・アカデミーは、1727年にヴェヌーティ家のマルチェッロ、リドルフィーノ、フィリッポの三兄弟が創始したものです。その後、メンバーでありかつ彼らの叔父であったオノフリオ・バルデッリからの寄贈により、この博物館の基礎が出来たのです。博物館自体は、レプッブリカ広場に面したプレトーリオ宮に入っています。

さてその内容ですが、地方の一博物館と言うには勿体無いほどの充実ぶりでした。非常に近代的で洗練された展示方式も素晴らしく、エトルリア時代の生活が分かりやすく解説されています。青銅器や墓碑など、ここでしか見れない収蔵品もあり、一見の価値ありでしょう。特に前4世紀の巨大な青銅のランプ(lampadario etrusco)は、繊細な造形が考古学的価値だけでなく美術品としても見応えありました。
05. ドゥオーモ(Duomo)
イタリアでドゥオーモと言えば、人々の精神活動の中心として物理的にも街の中心にあるのが一般的ですが、ここコルトーナにおいては、西の外れという珍しい場所に位置しています。正式には、"Cattedrale Di Santa Maria della Assunta"(被昇天の聖母マリア司教座聖堂)という名称が付けられています。

この場所には、実証はされていませんが、やはりエトルリアの宗教施設があったと伝えられており、建造地としての基礎と石材の流用という理由があったのかも知れません。また、もともと城壁外のサン・ヴィンチェンゾ教会が司教座聖堂の役割を担っていたこともあり、この聖堂の建造によりより生活の中心である城壁内にドゥオーモを持てるようにしたかったということもあるのかも。そして同じくエトルリアの宗教施設のあった場所に建っている聖マルゲリータの墓所が街の東の端にあるのに対して、こちらが西の端にあるのもエトルリアの宗教観を表しているようで興味深いですね。
1250年の改修時には、ニコラ・ピサーノが設計を行っていますが、現在の姿は15世紀の改修時のものです。当時の枢機卿であったシルヴィオ・パッセリーニ(Silvio Passerini, 1469-1529)は、かのヴァザーリに相談を持ち掛け、その助言に従ってフィレンツェの芸術家達による内装の改修が行われています。
内観は、やはりバロック様式に変えられていますが、一つ面白い点があります。それは、入口から最大へ向かう床に、雄牛の頭部と4つの星が描かれた装飾が埋め込まれていることです。残念ながら碑文をきちんと読んでなかったので、何に由来するものか未確認ですが、興味深いですね。ルカの象徴として、また子午線の通り道なのか、はたまた牡牛座付近のスバルを表すものなのかと、想像が膨らみますね。


06. 教区博物館(Museo Dioceano del Capitplino)
入口がかなり素っ気無くて分かり難い、というか本当に入口なのか迷って入ったら正解だったという感じの簡素な概観の博物館ですが、収蔵品は当に垂涎の素晴らしさがあります。その素っ気無さは、もともとジェス教会(Chiesa di Gesù)という16世紀の教会建築を、20世紀に入って博物館にしたことにもよります。そしてドゥオーモを初めとするコルトーナの主だった教会が所持していた美術品を一括して管理することを目的に創始されたのが、この博物館の由来となっています。

内容としては、地元の画家が中心ですが、その地元の画家というのがフラ・アンジェリコとルカ・シニョレッリなのだから堪りません。数こそ少ないのですが、この小さな空間にこれだけの傑作が展示されていると思うと、それだけでこの地に足を運ぶ意味があるでしょう。そしてその中でも一級品と言えば、以下の3点が挙げられます。
まず1点目は、フラ・アンジェリコの《4人の聖人に囲まれた聖母子》です。何と言っても、中心の聖母子像の色彩と形態のバランスの良さ、布のひだの自然な描写、そしてマリアとイエスの柔和な表情が素晴らしい。画家の個性がいかんなく発揮された聖母子の表現に、彼の篭めた意気込みが伝わってきます。

2点目もやはりフラ・アンジェリコによるもので、彼の最も有名な作品のヴァリアントである《受胎告知》です。直ぐに目を捉えるのは、天使ガブリエルの薔薇色に金の刺繍をあしらった装いでしょう。マリアのものと比べるとひだの数がかなり多く、その色彩と形態が醸し出す優雅さは、彼の技法の極致が感じられます。館内の電灯がやや暖色系なため、その色彩を十分に味わうには足りませんが、その展示空間自体も贅沢なものがありました。

そして3点目に挙げられるのは、ルカ・シニョレッリの《死せるキリストへの哀悼》でしょう。イエスの遺体をとりまく人物達の表情や仕草は、綿密な観察と考察によるものと思われます。各人の服装にも非常に気が使われており、複雑な文様を伴う布の組み合わせが、非常に優れた技巧で描き分けられています。その意味では、皆とてもお洒落な雰囲気があってイエスの死に対する悲しみよりも、豪奢な装いをした舞台上の演劇を見ているような感覚に捉われました。構図としても、非常に完成度の高い作品ですね。

今回、私が訪れた時には、他に観光客も入ってなく一人でこの空間を独占できました。ここだけは、コルトーナを訪れた際にお忘れなく!
07. 中世の家(Case Medioevali)
教区博物館の裏を少し暗がりの多い方向へ歩くと、イタリアでもあまり見かけたことのない家々が現れます。2階部分が1階よりも通り側にせり出しており、このせり出し部分を木材でささえるという構造が見て取れます。これらは、13世紀頃の一般的な民家の建造様式であり、当時のままの姿で残っているのは非常に珍しいとのこと。15世紀に入ると、このせり出しが街路を暗くするという理由で禁止され、徐々に姿を消していったそうです。確かにこの通りだけ暗くてちょっと危ない感じがありますね。それでもやはり、中世の頃の雰囲気を直接感じられるのがとても嬉しいです。

当時の家屋は、階によってその用途が異なっていました。1階部分が店舗や倉庫そして作業場、2階部分が通常の生活空間、3階部分が寝室という使い分けが一般的とされています。そのため、生活空間を最大限に確保するため、2階部分が1階よりも拡張される傾向があったようです。これは、ヴェネツィアの商館の構造としても良く知られていますね。ちなみに裏側に回ると、このような感じに勝手口が見えます。

さて次回は、いよいよ最後の訪問地サン・ジミニャーノの街についてご報告します!
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